2007-03-06

重森三玲邸に行く

先週に引き続き、またしても重森三玲です。もう飽きた!って人、これで最後なので、も少しだけお付き合いくだされ(笑)

こないだ、重森三玲の作庭した庭について書いたんですが、早速、重森三玲美術館というか、重森邸なんですが、行ってきました!

2、3年前にシャープのAQUOSのCMに、ここの庭が使われたとのことで(←まったく記憶にないんですが…)、それを機に、クリエイターを中心に注目が集まっているらしいです。集まっているらしいのですが、まだまだマイナーな存在。完全予約制なのですが、お天気とにらめっこしながら前日に予約を入れたら、すんなり予約が取れてしまいました~。

京都は吉田山の麓にありまして、京都大学のすぐ南なんですが、なんやしらん、迷いもって行きました。土地勘、ないんです。

予約していたのにもかかわらず、這々の体で到着したときは、すでに10分遅刻。
もともとが、吉田神社の社家である鈴鹿家のお住まいの場所だったので、吉田神社の表参道に近いところにあるとは思っていたんですが、そうじゃなくて、裏参道に面しているのでした。普通に住宅街だし、なかなかわかりづらいです。。

吉田神社というのは、都が奈良の平城京から長岡京を経て平安京に移ったとき、平安京の鎮守神として、清和天皇が藤原家に命じて創建した神社です。
平安京の鎮守といっても、世は藤原家謳歌の時代ですから、藤原家繁栄のための鎮守とも言えるんですが、ま、そこまで言うと意地悪ってもんですかな。

で、藤原家の分家でもある近衛家をスポンサーとして、鈴鹿家が吉田神社を取り仕切り、裏参道に社家も建築してもらった、というのが、現・重森三玲旧宅/重森三玲美術館の建物です。
ですから、このあたり、近隣の家の表札を見ると、鈴鹿姓だらけです。

建物自体は、何度かの火災に遭っているのでしょうが、平安の時代からのものではなく、江戸時代の遺構。それでも、格式のある社家建築の趣を伝える遺構はとっても貴重です。

近衛家といえば、第2次大戦時の首相、近衛文麿が有名ですが、京都大学に通っていた際に、この家を下宿にしていたそうです。
下宿といっても、鈴鹿家にとっては大スポンサーである近衛家の御曹司を迎えるわけですから、一番いい部屋を用意し、箸の上げ下げまで奉仕したということですが。

そういう格式のある家も、ま、経済的な事情から売りに出されるわけです。そこを、重森三玲が買い求めたということですが、もちろん、そういう邸宅ですから、金銭の多寡で売り先が決まるものでもなく、買い求めた後になにをどう改築するのか、どのように使っていくのかなどの聞き取りを経て、売却先が重森三玲に決まったのだとか。

ところで、この邸宅が重森三玲の手に渡って以降、彼は、自らの設計で新たにふたつの茶室を建て、書院前庭、茶庭、坪庭をあらたに作庭しています。特に、書院前庭にはもともとの庭があったのですが、それを壊し、ランドマークとしての役割を果たしていた松の木すら抜いた、ということです。
おかげで、この場所は新旧融合の大変に珍しい邸宅となっているのですが、ついでにいえば調和もしているのですが、かなり大胆な改造を施したわけです。
裏を返せば、それを鈴鹿家が許したということでもあるのですが、そうした大胆な改造を許可させてしまった重森三玲のプレゼンテーション能力は、かなり高かったのだな思います。

造園業界というところは、伝統に重きを置きすぎるきらいのあるところでして、そのせいもあって、大胆な作庭をする彼に対する風当たりは、相当にキツかったと、言われています。
そのせいで、今でも彼の著作物や彼について書かれた本は、そのほとんどが絶版になっています。(最近、スイス人の研究家が、彼の作庭した庭を論評した本を上梓しましたが、英語です)
それでも、東福寺や松尾大社、大徳寺をはじめ、大小さまざまなお寺や個人邸宅に、なんだかんだ言って100以上の作庭をしているのだから、業界の外で、かなり認められていたということにもなります。

そのあたりのことを伺うと、池泉廻遊式庭園を造る作庭家はたくさんいたけれども、白砂川と青石の石組みを得意とする作庭家が重森三玲しかいなかったのが幸いし、彼のもとに注文が殺到したという側面もあったのだとか。

ということは、昭和の時代に、日本を代表する庭園表現である枯山水を作庭する作庭家がいない造園業界の伝統ってなんなのよ?って話ですが…。

なんだか、背景の話に終始していますが、なにはともあれ、見てきたのでした。

メインの書院の庭は、中央に蓬萊島、東西に方丈、瀛州、壷梁の三島を配した枯山水庭園で、枯山水でありながらも宗教性をほとんど感じさせない、趣味の庭といった趣です。
白砂川は大海、そこに浮かぶ4つの島というのは、日本庭園の基本中の基本ですが、なにを表現しているかというと、ぶっちゃけた話、理想郷というか桃源郷というか、極楽を表現しています。

オレは熱心にあれやこれやと質問攻めにして当主と話し込んでいたのですが、相方さん、よくお眠りになられてましたわ(笑)
前日の夜更かしがたたったのでしょうが、陽光もよく、気持ちのいい景色をまえにして、夢見心地になったんでしょうな。そういう、夢見を誘う庭ですね。無心になったりなにかと対峙したり、というのは、じつは重森三玲の庭の特長でもあるとオレは思っているのですが、この、自室の庭は、どうやらそうではなくて、力強さを感じさせながらも、どこかほっこりとさせるものがあります。


帰り道、吉田神社に立ち寄るために、吉田山を登りました。
橘が満面に花を咲かせていて、近づくと、濃厚な香り。

花びらをお茶に浮かべると、いい気分になれそうやな、などと思いながら、春を感じたのでした。
相方さんの細い目が、素麺みたいになってます(笑)
春眠の季節、です。


2、3年前、シャープのAQUOSのCMで使われ、一躍注目された庭です。



木戸をくぐると、こういう玄関。
江戸時代の社家の様子がそのままのかたちで残っている貴重な遺構です。
玄関前の庭ですが、こんなところに住みたいです~。



書院前の庭です。
白砂川を大海に見立て、4つの島が浮かんでいる風景を、築山と青石で表現しています。
蓬萊の庭といいます。


書院左手にある祠。
この家は、もともとは、吉田神社の社家である鈴鹿家が住まれていました。
吉田神社は、平城京から長岡京を経て平安京に都が移った際、藤原家を祀るために、藤原家の分家である近衛家が創った神社です。
その、近衛家を祀っているのが、この祠。庭に祠が存在するのは、極めて珍しいのだとか。



濡れ縁のすぐ下、庭の際は、このように曲線が多用され、波を表現しています。
重森三玲が好んで用いた表現で、彼の作庭した庭の多くに、この表現が見られます。



書院の襖。
大胆に波が表現されています。モダンですね。



ここは予約制なので、ちゃんと説明がつきます。
オレは熱心に説明を聞いていたのですが、相方さんは前日の夜更かしがたたってか、すっかり眠りこけておりました。
ようやく起きて、髪を直してます(笑)



すぐ近くの吉田神社にも行きました。
吉田山をのぼっていく途中に見つけた風景。
家が先か樹が先か…。



葉を見るかぎり、橘…だと思うんですが、花弁が赤すぎるのが気になります。
花を近づけると、濃厚な香りがします。

2007-03-04

地蔵院に行く

2月、なんだかんだで7、8ヶ所くらいの神社仏閣をまわってまして、いかに仕事をしていないかっちゅー話なんですが、暖かい日が続いているので、またしても時間を見つけて行ってきました。といっても今週の月曜のことで、アップするのにすっかり時間を食ってしまいました。ちなみに、相方さんは忙しいらしいので、久々の単独です。

午前中のみ時間がとれそうだったので早朝から出かけて…、と、前日の夜につらつらと考えていたんですが、めぼしいところは行ってるし、3、4時間で大阪に戻ってこないとダメだからあんまり遠くへも行けないし、と思案した挙げ句に見つけたのが、松尾さんの近くにある地蔵院。ガイドブックには載っていない、ちっこいお寺さんですわ。

阪急電車嵐山線の松尾駅を降りて、お酒の神さん・松尾大社から人気の鈴虫寺へ向かって歩くんですが、直前で道を分ちます。
でも、鈴虫寺へ向かう婦女子さんたちと大部分は一緒に歩きますから、なーんかね、それがイヤで(笑)
鈴虫寺はいっつも行列が出来てるからまだ行ったことないんです。行ったことないので、詳しいことも知らないんですが、なんでも、ここのお守りが縁結びに絶大な威力を発揮するとかで、全国から婦女子さんが列をなして訪れてくるんですわ。そこへ、オレ、男子ひとり! もてないクンみたいになってます(笑)
いや、だから、オレは縁も結ばれてるし、鈴虫寺へ行くわけではないからね!と、周囲からの視線に必死で心で睨み返しながら、歩いてました(笑)

んで、そんな這々の体で辿り着いたのが地蔵院。臨済宗の禅寺です。
山門まえにある縁起を読んでますと、一休さんがこの近くで生まれ、幼少時代をこのお寺で過ごされたんだとか。アニメに沿って説明すると、母上さまとわかれる直前まで過ごしたのが、このお寺ってことです。
今年は2月の頭に一休寺に行ったし、なにかと一休さんに縁があります。

夢窓国師が開山とのことですが、お庭は国師作庭ではなく、国師がつくられたのは、ご本尊の地蔵菩薩。でも、秘仏でご開帳ならず、でしたわ。
室町管領の細川頼之の創建といいますから、それじゃ伽藍はたくさんあるんかいな、と思って縁起を読み進めていたら、末寺26寺、領地24ヶ所の一大禅刹にまでなってるやないですか。それでガイドブックに載ってないのはどういうことや!ってことですが、応仁の乱でことごとく焼けて、今、本堂と方丈のほかに、2、3の建造物がある程度の、ひっそりとしたお寺さんですわ。

ただ、境内は、山門をくぐってから本堂までがずずーっと竹林になってましてな、か・な・り、気持ちいいです☆
山門をくぐるとすぐに、竹の青い香りが漂ってきます。あのフレッシュな香りに包まれると、身体が洗われるような気分になります。この日は暖かかったので、なおさら!

京都の竹林といえば、嵐山と大原野が有名ですが、嵐山は車も通るし人が切れないし、ちーっとも静かじゃないです。大原野は静かだけれども、あそこは遠すぎ! だから、このお寺さんで竹林を堪能出来るということを発見したのは、かなりの収穫です。

本堂にはご本尊の地蔵菩薩さんと細川頼之像が安置されているとのことですが、どちらも秘仏でご開帳なし。いつご開帳なのかもわからないんですが、おかげで、このお寺さんで拝見出来る仏像って、ないんですよね。そりゃ、ガイドブックにも載りませんよ。

ただ、お庭はいいです。
こじんまりとしていて、全面を苔が覆っていて、ツツジに侘助が存在感を示しています。枯山水ですが、白砂はどこにもなく、植物と石だけで構成されたお庭です。
羅漢さんが修行している様を表現しているので、羅漢の庭。
お庭の隅に十六羅漢を模した石が配されているんですが、地蔵院の羅漢は男山の八幡宮に願をかけているので、置かれている石も、その方向に少しずつ傾けさせているのだとか。

誰もいなかったので、ベスト・ポジションで、庭を独り占めしてました。
小1時間ほど、横になって昼寝しましたかね。
寒くも暑くもなくて、陽気がよくて、景色のいい庭で、それもいろいろと解釈を必要としないわかりやすい庭で、禅寺というよりも、趣味人の隠れ家に遊びにきたような、そんなかんじです。

午後からは大阪に戻って、深夜まで仕事に忙殺。
束の間の、ノンビリした時間を過ごしたのでした。

見どころは?と問われればなにがあるわけでもないんですが、人も少ないし、気持ちの竹林とお庭があって、ノンビリ出来ます。
こういうお寺さんが、またひとつ手持ちのカードに加わりました。
今度は、秋にでも相方さんを連れて。



一休さんが幼少時代を過ごしたお寺さんです。
竹林が気持ちよくって、訪れる人も少なく、の~んびり出来ます☆
まずは、鈴虫寺の参道の喧騒を離れて、こういう道を歩いていきます。



途中、梅と椿の共演を見つけました。



地蔵院山門です。奥に、竹林が見えます。



山門をくぐると、延々と竹林。
相当気持ちがいいです☆



もいっこ竹林。木漏れ日というか、陽光が気持ちいいです☆
この日は気温16度。春ですね♪



本堂到着です。
応仁の乱でことごとく燃えちゃいましたが、これだけ再建なりました。
秋には紅葉が色づいてキレイでしょうね。



本堂からお庭に向かいます。



方丈から眺める庭園です。
どんな庭園を眺めるのにもベスト・ポジションが決められているのですが、誰もいなかったので、その場所からひとりでずーっと眺めてました。



平庭式枯山水の庭園ですが、十六羅漢の庭と呼ばれています。
置かれている石が、羅漢さんを表現しているわけですな。
地蔵院の羅漢は男山の八幡宮に願をかけているので、置かれている石も、その方向に少しずつ傾けさせているのだとか。
午前中、この庭を眺めながら、小1時間ほど昼寝をしていたのでした。

2007-03-01

重森三玲と枯山水の庭

重森三玲の名前を最初に知ったのは、30歳過ぎのことでした。

まだ京都の神社仏閣巡りをはじめた頃のことで、東福寺に参拝に行った折り、方丈の、それまでに見たどの庭とも似ていない、斬新でモダンな庭と出会ったのでした。

調べてみると、重森三玲という、昭和の作庭家が存在し、彼がつくったのだということがわかりました。
重森三玲は、作庭でだけでなく、東京美術学校で日本画を学び、茶の湯に浸り、生け花の革新を唱えて「新興いけばな宣言」にも名を連ねた、稀代の芸術家なのだということを知りました。イサム・ノグチは、彼から多大な影響を受けています。

禅寺の方丈といえば枯山水の庭がほとんどセットになっていますが、東福寺の方丈は四方すべてに庭が配されている、日本で唯一の方丈です。
東庭の北斗七星の庭、西庭の大市松の庭、南庭の蓬萊の庭、北庭の市松の庭。どれもこれもが斬新で、既成のスタイルにまったくとらわれていない自由さに溢れています。

この庭こそが彼の作庭デビュー作なのですが、
彼がまだ庭園の研究家として活動していた頃、昭和13年、室戸台風が近畿地方に多大な被害をもたらした折り、東福寺の方丈庭園もまた、激しく傷んだのでした。で、この台風によって庭の修復には困難が予想され、今後の研究が発展しないことを痛感した重森三玲が、作庭に乗り出したわけです。
また、旧態依然とした伝統だけが重んじられ、アートの神髄である自由な発想がまったく無視されていた当時の庭園界にあって、そして昭和期にいたっては将来に誇れる庭が造られていない現実を見るにつけ、彼の芸術家魂に火がついたという側面もありました。

1200年の都にあって、昭和に入ってから造られたお寺さんの庭って、それだけでドキドキしませんか?

といって、彼が、伝統を軽んじているわけでは、ないんですね。
東福寺方丈を例にとると、東庭は北斗七星がモチーフになっていますが、そもそも七という数字は吉兆を示す数字だし、柱石の余材を利用することで、余すことなく使うという、禅の精神を踏襲した庭となっています。
南庭は神仙境を表現しているんですが、蓬萊・方丈・瀛洲、壺梁の四島に見立てた巨石、砂紋による荒波、四方に五山を築山と、モチーフ自体はありふれているうえに、鎌倉以降の質実剛健さを基調にすらしています。それでいて、自由闊達というか、大胆無敵な作庭をします。実際、目の当たりにしたら、仰天しますね。
伝統とモダンのミックスと言ってしまえばそれまでですが、デザイン能力の高さと、肝っ玉の太さを感じずにはいられません。大胆でいて、洗練もされてます。

いつぞや、年のほんのいち時期だけ公開される、東福寺塔頭の龍吟庵を参拝したときのこと。
そこの方丈庭園もまた、重森三玲作庭の庭であると知り、実際に目の当たりにし、なんという庭か!と、仰天したものです。
もうね、巨大な浮世絵を見るような心地でした。石と砂紋だけで、黒雲を切り裂いて龍が躍動しています。

同じく通常は非公開の、東福寺塔頭、霊雲院南側にあるの「九山八海の庭」。
九山八海ですから、これは宇宙全体がテーマです。禅宗においては、宇宙全体といえば曼荼羅という優れた表現がありますが、重森三玲の表現する宇宙は、大胆かつ、不遜です。
同心円の紋様を白砂に幾重にも描き、中心に遺愛石を据えて、須見山とする。
大胆に抽象化され、かつ、豪快で、不遜です。

優れた芸術は皆そうですが、彼の庭をまえにして、のんびりほっこり、という気分を求めるのは、無理というもので。
ワクワクし、ドキドキします。冷や汗や脂汗すら、出ます。鑑賞したり味わったりというよりも、対峙させられている気分です。

先日、時間をやり繰りして、松尾大社に行ってきました。そこにも、重森三玲の作庭した庭があるのです。最晩年に作庭した、遺作となった庭です。
昭和49年着工、50年完成ですから、オレが生まれてからこっちの時代に、京都を代表する神社に庭が造られたこと自体が驚きじゃないですか。歴史ではなく、リアルタイムです。

禅寺ではないので、枯山水ではありません。お寺さんではなく神社なので、浄土式ということもないのですが、松尾大社がもっとも栄えたといわれる平安期を表現しているのだとか。
曲水の庭は、文字通り、曲がりくねった川が庭を貫いています。背後を緑で築山し、手前は敷石で平地を。山から平地を縫うように、縦横無尽に川が曲がりくねっています。そして、川面に突き出た無数の青石。この青石はすべて、杯です。川面を無数の杯が滑るように流れてくる…、なんとも風流で優雅な平安期の風景が、この庭には再現されているのです。そのように、風流ではあるのですが、洗練を拒むような豪快さが、この庭は同時に存在しています。風流と豪快さが同居するそのさまに、呆気にとられます。


さて、重森三玲の庭と出会ったのとときをおなじくして、オレは枯山水にものめり込んでいきました。
何故に、あれほどまでに具象を削ぎ落とし、狂気の世界とでも呼びたくなるような表現が出現したのか、ということです。

調べていくうちに、
枯山水の呼称は、もともとは仮山水であって、それも鉢山に対抗して名づけられたものだったろう、ということがわかりました。鉢山とは、盆山水のようなもので、鉢に盛ったミニチュアの山水のことです。

『作庭記』という本があります。
平安時代に書かれた日本最古の庭園書であり、寝殿造の庭園に関することが書かれていて、意匠と施工法が網羅されているんですが、そのくせに図がまったくなく、すべてテキストだけで構成されているという、なかなかの奇書です。
平安期に書かれた本ですから、枯山水出現以前のものです。まだ、石組みは存在しません。
存在しませんが、本来の庭園作法ではけっしてそこに庭を造ってはならないとされた場所に、石組みが出現した、と、かろうじて記されています。

この、一種、禁断の地に現れた石組みこそが、仮山水です。

真名のオルタナティブとしての女文字である仮名がひっそりと出現したように、真正の山水の矮小化を旨とするのがそれまでの庭園のメイン・ストリームであったなか、仮の山水が試みられ、矮小化の対抗手段としての抽象化が、ひっそりと出現しました。

なぜ、そのようなものが出現したのか。

ひとつの例として、細川勝元が妙心義天を竜安寺の草創に招いたときの高足だった鉄船禅師の試みを、引きます。
般若道人とも称した鉄船は、文明9年の『仮山水譜并序』に、意訳すれば、こんなことを書いています。

そもそも庭園などというものは、資金があればどんなに珍しい樹木も持ってこられるし、各地の立派な巨石だって集められるものであって、そんなふうにして大庭園をつくったからといって、それで風流の心が満足出来るとはかぎらない。
だから、我々のような貧しい者は、資金がないからといって庭園を造れないと諦めることはない。無論、大樹も巨石も集められないから、このたびは工夫して、一石一木をよく選び、これらで小さな石を組み、ここに仮の山水ともいうべき小さな庭を完成させた。
こうして完成させてみると、このような小庭においても五岳を感じることは出来るし、大海を遠望する気分になれるものである。それゆえ、得心のいく庭をつくるには、必ずしも富者豪族ではなくとも、自分のような貧しい者がそれをつくる可能性はじゅうぶんにあったのである…。

この鉄船の言葉は、村田珠光から武野紹鴎に及んだ侘茶の草庵の出現の経緯と、ピッタリと重なっています。
仮山水が貧者の一徹によって生まれた可能性を示すとともに、禅の精神を考えれば、その仮山水がやがて寺院塔頭の枯山水として、大きく引用されていっただろうことをさえ、雄弁に告示しているではないですか。

無論、これだけで枯山水が確立したわけではありません。

ここにはもうひとつ、残山剰水というモノの考えかたが、庭園に及びます。
白砂を用いて、残余を表現する。これはすなわち余白と空白の導入ですが、逆にいうなら、引き算の実験です。
なにかを削ぎ、残余を出現させ、余白と空白に積極的な意味を持たせていく。
仮山水が窮余の一策としての抽象化だとすれば、そこに積極的な意味を持たせることによって、仮山水は大きく飛躍し、枯山水となります。

このあたり、日本の山水感覚のみならぬ造形感覚の全般におよぶ、ヴァーチャル・リアリティの感覚の肝があるように、思うんですよ。

思っていたら、つい最近、思い知らされたのですが、そんなことは重森三玲が、とっくのむかしに気づいていたのでした。
重森三玲は、日本人に「空」が飛来した、と、書いています。
まさに、「空」であって、また「白」であって、また「余」というものであって、「負」というもの、だと。

京都は吉田に、重森三玲邸書院があり、公開されています。
吉田神社の社家である鈴鹿家所有の江戸期本宅を譲り受け、新たに自作したふたつの茶席、書院前庭園や坪庭がつくられている、新旧融合の興味深い場所です。さらには、社家建築の趣を伝えるほぼ唯一の遺構でもあります。

近いうちに行ってきます☆


大徳寺塔頭 瑞峯院 方丈南庭の「独座庭」




蓬莱山を表現した巨石と大海の伸びた出島の造形がなんとも不思議な石組です。
この石組こそが、重森三玲庭園の真骨頂でもあります。





方丈北庭は「閑眠庭」。配石が十字架になっています。




東福寺塔頭 霊雲院。書院の南側の「九山八海の庭」
「九山八海の庭」は江戸時代に作庭された庭園ですが、荒廃していたものを重森三玲が改修しました。
白砂の中心に遺愛石を据え、須見山に見立てています。
ものすごいインパクトです!





東福寺塔頭 霊雲院。書院の南側の「臥雲の庭」
この庭にね、やられたんです!
この庭と出会って、作庭した人物が重森三玲と知り、オレは、彼に惹かれていくようになりました。




おなじく東福寺塔頭、龍吟庵の枯山水庭です。
「龍門の庭」。
東福寺塔頭 霊雲院。書院の南側の「臥雲の庭」と同様、独壇場というかんじです。
龍が海中から黒雲を従えて昇天する姿を表現しています。
石組が龍の身体、砂紋が黒雲。
垣根になっている竹は、稲妻を表現しています。大胆すぎます。。






禅宗の方丈には庭園がつきもので、さまざまな禅寺の方丈庭園がありますが、四方すべてに庭園を配した方丈は、東福寺方丈だけです。
そのすべてに、重森三玲の手が入っています。
まずは、南庭と西庭。





続いて、北庭。
この庭が、オレが重森三玲にのめり込んでいくきっかけとなりました。超モダン!
東庭です。





松尾大社にも、重森三玲作庭の庭が。
曲水の庭、上古の庭、蓬萊の庭です。
曲水の庭は、川をたくさんの杯が流れている様を表現しています。