除夜とは、旧年を除く夜という意味で、12月31日の大晦日の夜を言います。
この夜、除夜の鐘を108回、撞く。
除夜の鐘を撞き、その音を聞くことによって、この一年のうちにつくった罪を懺悔し、罪をつくる心を懺悔し、煩悩を除き、清らかな心になって新しい年を迎える行事だということは、まあ、誰もが知ってますな。べつに、姫納めと姫初めの日にしても、いいんですけどね(笑)
ところで、人には108の煩悩があると言われています。煩悩とは、愛着、執着のことで、自分にとって離しがたい、捨てがたい感情や感覚のことです。我ながら、それは常々思うところで。
それではなぜ、煩悩は108なんですかね? ウロ覚えだったので、ちょいと調べてみました。
その数えかたには、次のようなものがあります。
まず、人間の身体全体の働きを表すものとして、六根があります。六根は、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つであり、それぞれに好、悪、平の3種があり、6×3で18個。
次に、人身に入って本来の清らかな心を穢すものとして、六塵というものがあります。色、声、香、味、触、法の、これも6つがあり、それぞれに、苦、楽、捨の三受があるので、これも6×3で、やっぱり18個。
以上をすべて足すと,36個になり、この36個は、三世 (現在、過去、未来) のすべてにわたって存在するから,36×3で、108個。
これが、煩悩が108ある由縁ですわ。ほとんどこじつけのような話ですが…。
こじつけと言えば、四苦八苦→4×9+8×9=108というのもありますが、あれこそまさにこじつけ(笑)
んで、それらを、除夜の鐘を撞くことによって,取り除いてしまおうというのが,除夜の鐘の行事です。
さて、除夜の鐘といえば、なんといっても知恩院のそれが有名です。TVでも、毎年、「ゆく年くる年」で中継されてま。(今もやってるのかしら?)
試し撞きまでがニュースになるけれども、もっとも試し撞きそれ自体が歳時記のようなものです。
知恩院の鐘の撞きかたはかなり独特で、親綱を持つ僧1人と子綱を持つ僧16人で撞木に勢いをつけ、親綱の僧の、「えーい、ひとーつー」の掛け声で、子綱の僧が、やはり「えーい。ひとーつー」と応え、そのあとに「ひとーつー」と声をあげながら、手を緩め、親綱の僧が綱にぶら下がり、撞木の勢いをさらにつけて、鐘を撞く。全体重をかけて、鐘木を鐘にぶつけるのだ。撞いた瞬間に、鐘の音が大きく京都中に響きわたります。
鐘を撞く僧は、命がけというほど大げさではないものの、親綱を離すとどこかへ吹っ飛んでしまうので、大変です。失敗すると恥ずかしいだろうし、無論、そうならないように練習するための試し撞きなのでしょうが、なんせ、70トンはあろうかという鐘ですからね。
僧侶にとっては、鐘を撞くことは修行でもあるけれども、ハレの舞台でもあるわけですね。ここで鐘を撞くこと自体が、選ばれることですから。
知恩院の鐘は、1636年 (寛永13年) に鋳造されたものですが、あまりの重さに、鐘を吊るための環が何度も壊れ、刀匠村正・正宗によってようやく吊るすことが出来た、という話も残っています。その撞木は、長さ4メートルの代物。
なにもかもが、桁外れにデカいですな。
最近は、初詣といえば地元の天満宮に行くことが多いので、知恩院はおろか清水寺にも行ってまへん。
あ、でも、除夜の鐘はお寺さんで、初詣は神社か…。
ほいで、なんでこんなことをツラツラと書いているのかというと、じつは来月、オーストラリアに出張になりそうなんですわ。ほんまは今月アメリカのロスに出張予定があったんですが、それはなんとか逃げ切りました。でも、来月のオーストラリアは、きっと行きます。
きっと行くんですが…、問題は、
オレ、これまでに行ったことのある国は108ヶ国なんです。そこでストップさせてるんですわ。これ以上増えると、煩悩を超えてしまうんで(笑)
オーストラリアは未知の国。行くと、109ヶ国目になってしまいます。
さて、どーしたものやら…。
最近、こればっかり聴いてます。
Jane Birkin / Erisa
2006-12-20
除夜の鐘と煩悩と(知恩院)
2006-12-15
夜の音楽
夜の音楽、というジャンルがあります。
夜の静けさのなかで着想された、夜の感覚で音を表現した、夜の孤独者にふさわしい音楽、というほどの意味ですかね。ショパンやフォーレが、そういう微妙な音楽をよく書きました。マーラーの第7交響曲も、夜の音楽としてつくられています。バルトークは、ルーマニアの山村の、深い夜のしじまのなかに聞いたカエルの声から、神秘的な彼の夜の音楽を作曲しました。けっして、尾崎豊がどうとかという話ではなく(笑)
夜の音楽は、不思議なジャンルです。
人々が寝静まって、あたりは深い静けさに包まれる。人間の意思や欲望が掻き立ててきたノイズが消え去ると、かわってそこには、べつの種類のノイズ、自然の内部から湧き上がってくる、たくさんの微妙で、豊かな音楽が、聞こえてくるようになります。しかし、夜のなかで人は眼が見えないから、それがどこから、また誰からやって来る音なのか、わかりません。
そのために、夜のしじまの全体が、この複雑で微妙な音を奏でているような気がするのですね。
人はその体験をもとにして、夜の音楽をつくります。かすかな震え、いつまでも続くかと思われる反復のなかから発生する微妙なうねり、最小限度の要素だけから生み出される、宇宙にも匹敵する複雑さ…。
夜の京都の庭で聞こえてくるのは、このような夜の音楽です。百鬼夜行の音楽とは、まさにそのような音楽です。
京都には、ナマのままの自然は存在しません。どんな小さな自然でも、そこでは、人間の精神によってたわめられ、手を加えられなかったものはありません。
庭園の設計者たちは、ナマのままの自然から、最小限度の要素だけを取り出し、宇宙と生命のすべてを表現してみようとしたわけです。
一面に敷きつめられた砂、その砂の表面に、反復する模様だけが描かれている。月明かりのもと、その反復のなかから、微妙で、豊かな音楽が発生してくる。静かに、渦が巻き起こり、空気がうねっていくような、眼に見えない動きをはじめる。そうすると、さらさらの、抽象的な砂だけでつくられた庭が、精妙な生命を持つもののように、感じられてくる…。
そんなかんじです。
また、べつの庭では、地面を覆い尽くす苔が、あたりをふかふかの緑に変えています。隠花植物である苔には、花はありません。そこでは、生命の花は、眼に見える植物の表面にはあらわれては来ず、見えない生命の内部空間に咲きだします。
そのとき、夜の庭にいて、無数の苔に囲まれたオレは、生命のあでやかな花を見るのではなく、まず、聴きます。表面の彩りは否定され、そのかわりに、植物の内部からは、生命が華麗な夜の音楽に姿を変えて、庭のすみずみまでを充たしています。
京都の町中の、市民の芸術家たちも、負けてはいませんね。
彼らは禅宗庭園を造ります。この抽象の原理を、騒がしい町のなかに持ち込んで、もっと現世的な魅力を持った、彼らの庭を造り出してきました。家並みのひしめきあう京都の町屋の内側に、市民は小さな坪庭を造ってきました。
坪庭は、町屋のパテオに出現する、一種の空中庭園です。
夜、柔らかい灯りに照らされて、その小さな庭は、家屋の中央に、すっぽりと抜けた空虚をつくり出します。そして、この空虚のまわりを、人間の生活の暖かさや賑やかさが、ぐるっと取り囲みます。水を含み、静かな音楽に満たされている小さな庭が、人間の暮らしの中心に、無を穿ちます。
京都の町は、いたるところにこのような小さな無を穿たれることによって、軽さを身につけることが出来たように思うのです。
この軽さは、夜の音楽に特有のものですね。
夜の音楽では、人間的な感情が大きく盛り上がったりはしないし、意思や欲望の強さによって、あたりが息詰まる感覚に充たされることもありません。そこでは、自然にフィットしてつくられた生命たちが奏でる、微妙な音楽があたりを包み込み、人間の世界の騒々しさを、気化してしまいますから。
もしも都市が、人間の意思や感情だけで造られているとしたら、京都のような狭い空間に開かれた都市は、すぐに息が詰まってしまっていたと思います。
ところが、ここでは、いたるところに庭があり、そこでは抽象的な砂だとか、植物の見えない内部空間から発生する微妙だとか、家屋の中空に穿たれた無だとかから、夜の自然の音楽が、生まれています。
そして、静けさと、反復の美と、なにかが月に向かって立ちのぼっていくような感覚に充たされた、この夜の音楽は、この世界がすべて人間のものなどではなく、ここは大いなる流れのただなかに浮かぶ浮世にすぎないという事実を、人に告げようとしているように、オレには思えてなりません。
この、どうしようもない諦念こそが、侘びや寂びの本質か、と、近ごろ思ったりします。
今日、ジェイムス・ホイッスラーの画集を見ていたのですが、ふと、そんなことを思いました。
彼の絵画もまた、夜の音楽の様相を呈しています。
Van Morrison / 『Enlightenment』
2006-12-08
庭を掻く(東福寺)
初めて石の庭に対面したのは、10代の終わりころのことでした。
夏の夕方で、今よりはずっと監視が緩やかだったから、オレは、ひとりで、長い廊下に座ったまま白い庭のモノクロームが暮れなずむのを眺めていたのでした。退出を促す若い僧侶がやがて現れ、オレが立ち上がるのを見届けると庭に降り、白い小石の表面を整えにかかりました。
それをゆっくりと拝見することはそのときのオレには許されなかったのだけれども、竹の道具で掻く、という文様のつくりかたを垣間見たことが、ひどく心に残ったのでした。
それからずいぶんと時間が経って、アフリカ・ザイールのクバのテキスタイルを見た折りに、はからずも、その石庭の印象がよみがえってきました。
クバ族はアフリカの優れた染色の仕事のなかでもとりわけ独創的な文様をつくり続けてきたことで知られ、画家のマチスがそのコレクションを愛蔵していたことが、写真家アンリ・カルチェ・ブレッソンのカメラ・アイに収められています。
クバ族のテキスタイルは、草ビロードと呼ばれるカットパイルの布と儀式用の礼装から成り立つのですが、いずれも驚くべき幾何学的なパターンを表現しています。とりわけ葬式の供えものであるカットパイルの四角い布に捉えられた図柄の抽象性は、彼らが、世界を幾何学的な記号の組み合わせとして解釈する、という研究家の言葉を如実に表していますね。
その研究家、メアリー・ハント・カレンバーグが、興味深いエピソードを披露しています。
かつて宣教師がクバの王へ贈りものとしてオートバイを持参したが、王はなんの関心も示さなかった。そこでオートバイを引き上げようと動かしたとき、王の眼が輝いた。タイヤの残した模様が、新しいパターンとして取り入れられることになった…。
この話は聞く者をさまざまに触発しますが、オレは小躍りして、ひとつの持論を出したのです。文様は、まず、動詞がつくってきた、と。
平面あるいは表面に、彫ル、刻ム、などの動詞がかかわって生まれる文様について、古代からの文化遺産の例を引くまでもありません。仏像のまとう布は、畳ムことによって生まれる襞の文様の神々しい例です。
そぎ落トス、削ルなどの意味を持つ、ハツルという動詞もあります。
1988年のヴェニス・ビエンナーレでフランスを代表したダニエル・ビュランは、自国のパビリオンでの建物の肌を見せることを作品としましたが、それはほぼ1世紀前に建築家が残した文様、すなわち石壁のハツった面と、動作を加えない面とが構成する、美しい縞模様の素肌を剥き出しにして見せることでした。
水紋、風紋は、自然が仕掛けた動詞のつくりだす文様と言えるのではないか?
では動詞でなく名詞で文様を見るなら、これまた花、鳥、草、樹、動物。自然界を模したものだけでも無限に存在しています。
そこでまたオレだけの定義になるのですが、名詞からは模様が生まれていきます。
バラの模様、つる草の模様、鯉の模様、ライオンの模様、のこぎり、かんなの模様、サムライの模様、子供の模様。すなわち、かたちと名のあるものたちの模様。
枯山水もまた、自然を模したものではあるのだけれども、そこにある文様の力は、ほとんど謎です。
小石の海の表面を掃くことで水の流れを現出し、小石を円錐形に積み上げることで山を表すと、初めに案出した人は宇宙の再構築を無意識のうちに行っています。日本の庭園で心が静まるのは、プリミティブ・アートを前にするのとおなじと言ったら突飛すぎるかも知れないけれども、根源的な力を捉えた文様、という共通項があります。
クバ族は自然の事物を単一の記号に省略し、抽象化します。
オレが見た一枚は、村落や田畑と思われるものが線による幾何学文様として地面をつくり、その随所に一段と厚みのあるモノリスのような長方形のパターンが浮き出たもので、それは、東福寺光明院の印象を思い起こさせるのでした。
四角いクバの布は死者の霊に捧げるものなので優れたデザインでなければ昇天出来ない、と、クバ族は図案を競い合います。成果をあげた文様は、未来的なイメージさえかき立ててくれます。
12月に入ったばかりのころ、急遽、仕事で早朝の東福寺に行くことになったのですが、その折、超がつく名庭の、文様を掻かせてもらいました。
寺院の庭の文様にも、鎮魂の思いは込められています。
無心にそれを掻く人になりたいと、その後、場所を重森三玲の作庭した昭和の名庭に移し、眺めながら、ずーっと思っていました。
いい体験をしました。
写真(左)オレが掻かせてもらった、東福寺方丈前庭です。
写真(右)重森三玲が作庭した昭和の名庭、東福寺方丈北庭、市松の庭です。
東福寺