2007-12-13

高野第三住宅

京都は洛北、大原通を北に歩いていきますと、高野第三住宅という大きな公団住宅の団地があります。
明治40年にカネボウが紡績工場をこの地に建てたのですが、昭和56年に住宅公団が買い上げて住宅地としたのが、高野第三住宅。

当時の煉瓦建築がそのままでたくさん残っている、珍しい公団住宅ですわ。

ボイラー室を改良して集会所や管理事務所にしたり、煉瓦塀なんかが残されてます。
京都まで仕事に行った折り、ちょいと見物してきました。

まだ紅葉が残っていて、煉瓦とよくマッチしていますね。









昭和56年に住宅スペースが建てられ、そこは普通なのですが、当時の面影をそのまま残している集会所や管理事務所、煉瓦塀などに目を遣ると、いろいろなことが想像出来て楽しいです。

外塀と内塀があるのですが、外塀は、中と外をわけるだけでなく、逃亡防止用だったそうです。だから、ビックリするくらい、背が高い。

1920年代、ここで働いていた職工さんは3400人いたと言います。寄宿舎の清和寮には2500人の女工さんさんたちが高い塀に囲まれて暮らし、なかには映画館まであったそうです。この塀のなかだけで、職住のすべてが完結してしまう、独立した地域のようだったんでしょうね。現在では、隣接する場所にイズミヤがあるのですが、もとは鐘紡のグラウンドでした。
会社全体で職工さんの生活の面倒を見ていた、ということです。
ただ、そういえば聞こえはいいですが、逃亡防止を兼ねた高い塀だったということは、やはり、それだけキツい労働を強いていたということでもあるのでしょう。女工哀史なんかも、残っているかも知れません。

外塀をくぐると、ほどなくして内塀が現れます。塀の上部がのこぎり型のフォルムをしていて、この塀が工場の塀だったことが、すぐにわかります。





裏へまわってみると、塀の一角にお地蔵さんが祀られていました。煉瓦に囲まれたお地蔵さんも、なんだかいいもんですね。




部外者なので、そうそうなかには入っていられないんですが、住宅に引っ付いているかたちで、不思議なものを見つけました。どのように再利用されているんでしょうかね?






この、高野第三住宅は、「京都の近代建築を考える会」によって、明治期から戦前までの建物を表彰する「市民が選ぶ文化財」に選ばれています。
京都は、明治維新で皇族が江戸に移ってから、政府に見捨てられた場所です。
なので、これからはお上に頼るのではなく、自前でなんでもやっていこう!という気運が高まり、全国に先駆けて小学校を建設し、大学を設立し、企業を誘致して、盛り返していったんですね。
京都といえば、伝統や日本美といったものが真っ先に思い浮かぶけれども、今もむかしも、都というところは、新しいものを取り入れるのが大好きな、進取の気風を持った場所です。
だから、明治期にもたくさんの建築物が建てられ、それらだけをピックアップして巡っている人もいますな。

歴史ある建物も、放っておけば、知らず知らずのうちに容赦なく壊されていくもんですが、そのままのかたちで残すことが難しいのだとしても、せめて、こうやって一部を生かすだけでも、いっぺんに素敵なものになりますね。
なんといっても、むかしの建造物は、効率だけを考えてつくられたものではないから、様式美があります。
この煉瓦も、なんだか今の煉瓦よりも暖かみを感じるのは、どうしたことなんでしょうかね?

ここ、賃貸で、空き物件がいくつか出ていて、興味本位で調べてみたことがあるんですが、2DKでね、ちょっと狭いんですよね〜。もちょっと広かったら、住むことを考えるんだけど。。。


今日は、ゴキゲン・ジャズ・ファンクで☆

本日の1枚:
『j.t.q. theme』
james taylor quartet

2007-12-09

紅葉絨毯(長建寺)




お酒の宣伝の仕事がありまして、その件で伏見に行ってきたんですが、ちょうどいい機会だったので、名残の紅葉を、と思って、伏見のお目当てのお寺さんに行ったら、デッカい法要が営まれているらしくて、拝観不可。

あらら、と思ったんですが、お寺さんの裏にまわってみましたら、紅葉が散りはじめていて、下がね、見事な紅葉絨毯になってました〜。

これが一番好きですね。
京都では例年、紅葉が散りはじめるのが12月の初旬で、全国からやってくる観光バスは11月末でピタッと終わりますから、京都の紅葉をゆっくり見ようと思ったら、じつは12月の最初がベストなのですよ。
んで、その時期になると紅葉が散りはじめますから、散った紅葉が地面に積もって、見事な紅葉の赤絨毯が出来ます。今年は、ちょっと遅れてるけどね。
毎年ね、これをゆっくり眺めるのが楽しみなのですよ〜。

人がいてないから、ゆっくりと見ていられるし。

ここは、伏見の名もないお寺さんの、しかも裏側だけれども、しばし見とれてました。ちょうど小春日和で、少しあったかかったしね。

もちょっと写真を撮りたかったんだけれども、デジカメのメモリーがいっぱいになっちゃって、仕事で撮った写真を消去するわけにもいかず(笑) 3枚だけ。場所は、長建寺というお寺さんです。


で、今、季節外れのボサノヴァを聴いてます〜。北海道のボサノヴァ・シンガーさん。

本日の1枚:
『Wave』
小泉ニロ

2007-12-03

光琳の梅

今年の2月だったのですが、京都は下鴨神社に、光琳の梅を見にいったのでした。
これまた2月にアップした日記とほとんどダブってしまいますが、ま、お付き合いくだされ。
思いっきり季節外れですが(笑)


オレ、尾形光琳という日本画家が大好きでしてね。
日本画家のなかでは、たぶん、一番好きかもしれません。
繊細さとダイナミックさが同居していて、なんというか、スケールが大きくて、王さまの芸術とでも呼びたくなるような趣です。

なかでも傑作の誉れ高い『紅白梅図屏風』は、死ぬまでに一度は見たいなあと願ってる作品でして。熱海のMOA美術館にあるんですが、熱海に用事はないし。。
あ、これが『紅白梅図屏風』です。



この実物もさることながら、2月に梅情報を調べていたときにですな、な、な、なんと尾形光琳が『紅白梅図屏風』を描く際に参考にしたという梅が、下鴨神社にあるというではないですか!
そんなん全然知らんかったんですが、今年のJR東海の「そうだ 京都、行こう」のキャンペーンで紹介されて、一気に人気者になっとるらしいですやん。

下鴨神社は何度も行ってるけれども、そんなん、全然知りませんでした。
ちょうど、あのあたりは椿がたくさんありますから、そっちも見頃やろうし、ほんなら行きまひょ!ということで、行ってきましたですよ、仕事サボって(笑)

この日は、大快晴の梅日和でしてね。しかも平日だから、人も少ない! いうことないです。

下鴨神社は京都で一番古い神社。上賀茂神社の親でもありますが、みたらし団子の生みの親でもあります。御手洗川も御手洗社もありますからね。
すぐ横には京都のジャングルというか、人の手の入っていない数少ない森、糺の森がありまして、さらにその向かいには京都家裁があります。「糺す」と命名された森の横に裁判所があるというのは、偶然なのかどうか知りませんが、なかなか意味深ですな。もっとも、本当のところは、賀茂川と高野川の合流点にあるので、只洲→糺す、となったとする説が有力ですが。

この森を縫うように下鴨神社の参道が続いており、今日みたいな天気のいい日には、原生林の森から木漏れ日が射し込んで、とーっても気持ちがいいです。この森は、夏に来ると虫が多くて閉口しますが、それ以外の季節だと、いつ来てもいい気持ちになれます。市中のど真ん中にこういう森を抱えているところがね、京都の奥深いところです。この森は、里山の森ではなくて、正真正銘の原生林ですから。

さて、目指すは、本殿横にある「光琳の梅」です。幸いなことに、人影もまばら。
それにしてもあんなところに梅なんかあったっけなあ、などと思いながら歩いていくと、もうね、一瞬で目に入りました。

いやいや、艶やか! お見事です! って梅。
御手洗川に架かる輪橋(そりはし)のたもとにね、1本だけなんですけど、それはそれは見事な梅が。。
ちょっとね、これ、溜め息が出ますよ。
一応、写真を撮る目的で来たんですが、ほえーっと、見とれてしまいました。
1本しかないからなおさらだけど、すんごい、フォトジェニックな梅です。
また天気がよくって抜けるような青空だから、そのコントラストが鮮やかで。









光琳が『紅白梅図屏風』の梅はかなりリアリスティックに描いてありますが、この梅をそのまんま模写するように描いたわけではないですね。
眺めていて、そう思いました。
そうではなくて、この梅が持っている本質、それは王さまの梅とでも呼びたくなるような桁外れの艶やかさと華やかさなんですが、それこそを、光琳は屏風に写しとったのだな、と、この梅を見て思いましたよ。

光琳の作品は、どれも、規格外です。繊細さと大胆さが同居するというウルトラC級を内包するのが光琳の作品の特長だとオレは思っているのですが、そういう光琳だからこそ、この梅が心に響いたのだな、と、そんなふうに思いましたな。

ところで、この梅を見ていて、あっ!と思ったことがあります。
光琳が描いた『紅白梅図屏風』は、真ん中を大胆に川が流れていて、屏風を左右に仕切ってしまっている構図なのですが、これがね、この場所の地形を想起させるのですよ。
nがYの字になっているのが、光琳の『紅白梅図屏風』です。
きっとね、この地形にインスピレーションを得たのではないか、と、オレは思うのですよ。
大胆さは光琳の代名詞でもありますが、まさにね、地形の大胆さがそのまま構図に写し取られています。
そういうふうに考えると、なかなか楽しい妄想が出来るじゃないですか。

これで『紅白梅図屏風』の実物と対面する日が、ますます楽しみになってきました☆
誰か、熱海に行くような仕事をくれませんかね?(笑)
もしくは、屏風を熱海から関西に持ってきてくれるとか(爆)

相方さんの黄色のスモッグと梅の赤が、いいコントラストを描いてますね。




帰り道、再び糺の森を歩いていると、鮮やかな椿を見つけました。




そして、神社をあとにした住宅街の玄関先で、心尽くしの梅の鉢を発見☆



紅葉のこの時期に梅の日記なんて、あったもんじゃないですが、ま、そのへんはお許しを(笑)

2007-11-26

圓通寺/消えゆくもの

ここ数年、とあるお客さんの会社の社長さんの奥さんが所属する団体の京都観光のナビゲーターを仰せつかっておりまして、春と秋に、京都のお寺さんを案内&記念撮影係を強制的にさせられておりまして…。。。

今日、またまた京都ですよ。
3連休でどピーカン&気温もよろしくってことで、こんなときの京都なんて、どこ行ってもどうにもならんですけれどもね。
春先も、銀閣寺と哲学の道と南禅寺と連れまわされたし、ほんま、仕事がたまってるのでカンベンしてほしいんですが…。。。。(笑)

えーっとね、バスをチャーターして、15人ばかり引き連れて、お寺さんを2ヶ所、まわってきました。
1軒目は、圓通寺。
2軒目は、金閣。
金閣って…、1週間前にブラジル人のオッサン連れて、行ったところなんですけど(笑)

まあ、でも、圓通寺は2年まえに行ったきりだし、これはこれでよかったんですけれどもね。

そんなわけで、今日は圓通寺を。
しっかし、京都中の道が大渋滞で、ほんま、バスが動いてくれませんでしたわ〜。


えーっと、圓通寺はなかなかシブいお寺さんでして、京都市内でも平野部の一番北にあるせいもあって、それほど人が訪れないお寺さんなのですね。

でも、清水寺、知恩院、南禅寺、金閣寺、銀閣寺、東寺、三十三間堂、天龍寺、大原三千院、鞍馬寺、東福寺、平等院鳳凰堂、二条城、御所…、ここらの大駒を制覇したら、その次に行ってみたくなるランクのお寺さんです。
その次のランクといえば、詩仙堂、高台寺、高山寺、神護寺、広隆寺、仁和寺、相国寺、大徳寺、建仁寺、泉涌寺、善峯寺、祇王寺、桂離宮、修学院離宮あたりになるんでしょうが、そのなかでも一番アクセスが悪いせいもあって、それほど混んでいるお寺さんではありません。平日の昼間なんかだと、きっと独り占め出来るお寺さんです☆

とにかくね、市バスであれ電車であれ、なにを使っても、かなり歩きます。
山を越えたり、田んぼ道を延々と歩いたりしなければならないのですが、その道中の景色が、のんびりしていて、いいかんじです。
まあ、今回はバスをチャーターしてますから、お寺さんのまえの駐車場に横付けですが、これがね、もったいないの。でも、オバァ連中ばっかりだから、仕方ないですね。年寄りと金持ちは、タクシーで来ますから。

ここはですね、なにもないお寺さんです。
見るべき仏像も、見るべきお堂も、ありません。

でもね、庭が素晴らしい!
そのひとことに、尽きます。

借景庭園でして、樹々のうしろにそびえ立つ比叡山がね、見事です。
生け垣と樹々の葉で空間の上下を区切り、そこに比叡の山並みがすっぽり収まるようにつくられています。
後水尾天皇が作庭したのですが、比叡山がもっとも美しく見える場所を20年かけて探したといいますから、これは金持ち道楽の極みですね。
それでいて、禅寺ですから、金持ち道楽の厭味が、まるでありません。
ゴダールの映画ではないけれども、金持ちでないと出来ない表現って、やっぱりありますね。

この時期は紅葉も美しく、ほーんとに、ずっと見とれてました。
ただ、オレのしょぼいデジカメで撮影すると、せっかくの比叡山が、キレイに映ってくれないのですね。。。
これ、携帯からだと、比叡山が見えないかも知れません。。


さてここは、長らく、撮影禁止のお寺さんでした。
黙って撮影すれば怒られるし、そもそも、入室するときにはカメラを預けなければならないほどでした。
そもそも景色は目に焼きつけるもので写真に撮るものではないからです。
オレは、その考えにすごく賛成で、今でこそ撮影してますが、それは京都の神社仏閣本をつくると決めたからで、そんなことを考える以前にまわった大半のお寺さんでは、1枚も写真を撮ってません。
撮るとね、忘れちゃうんですよ。
記憶装置、記録装置に頼ると、脳が働きませんね。これ、困ったもんですけれども。

今、このお寺さんでは、撮影することが許されています。
じつは、この庭の先で大規模開発の許可が下りて、これからビルがバンバン建つ予定になってしまっているのですね。
住職さんは反対運動を続けていますが、景観を厳しく保存している京都市であっても、この決定は覆らないそうです。
なので、住職さんは、出来るだけこの景色を記録してもらおうと、今、撮影を許可しています。

消えていく景色なのですね。
ですから、目に焼き付けておきたいし、もっというならば、写真ではなく、誰かに、絵を描いてもらいたいくらいです。
この美しい風景よいつまでもそのままでいてくれ!と、センチメンタルな感情を込めて描くもよし、所行は無常で、どんなものでも移ろいゆくという儚さを込めて描かれるものでもいいです。
そうした感情のこもったこの風景の絵を、ぜひ、見てみたいとオレは思っています。

住職さんが厳しいせいもあって、この庭で、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしているオバァは、まずいません。
しゃべってると、怒られますから。
おかげで、オレも、今回はラクなお守りとなりました(笑)


そうそう、帰りしな、近くの農家のオバァと話し込んでいたら、掘りたての金時人参をいただいてしまいましたですよ☆
豚汁や粕汁に入れる以外に、なにに使えばいいんでしょうか?
誰か、教えてくださいませ。


圓通寺の近くにある深泥(みどろ)池。
水面に映った景色がきれいです☆



圓通寺の山門です。



比叡山を借景とした庭園。見えますかね? 樹々の後ろにうっすらと青く聳えるのが比叡山です。














庭の反対側は、竹林が広がっています。






こんなに金時人参をいただいてしまいました(笑)

2007-11-22

99分





この店のことはずいぶんまえに日記で書いたのですが、今日、久しぶりに行ったので、もっかい。

京都のど真ん中に、とんでもないカフェ、基、喫茶店がありましてですね。
今日、3人で京都に仕事に出かけた折り、その店の話をしていたら、行ってみたい!ってことになって、久しぶりに立ち寄ったのでした。
オレ自身、2年ぶりくらいかも知れません。
なんせね、行くなら行くで、ちょっとした覚悟がいるのですよ。

お店の名前は、『クンパルシータ』。
タンゴの名曲から店名をいただいた、タンゴ喫茶(笑)

あのね、日本中どこを探したところで、こんな店はないですから。

風俗街のトバグチにあるんですが、もっとも店の創業が終戦直後の昭和21年なので、風俗店があとから乗り込んできました。それはいいんですね。問題は、風俗店でもないのに、風俗店以上に妖しい雰囲気を醸し出していることのほうで。
まず、地下でもないのに、カフェのくせに、窓がいっこもありません。
港町の場末のバーのような扉を押してなかに入ると、ベルベットの赤で統一されたイスが並んでいて、店内はタングステンでも使ってるのか?と言いたくなるほど、オレンジに輝く照度の低い照明で。で、テーブルとテーブルを仕切る柵は、先が尖っていて、妖しく黒光りしていて、まあ、ラブホのSMルームのような装いですよ(笑)

むかーしの喫茶店って、イスとテーブルがかなり低かったりするんですが、ここも例に漏れずですな、低いのですよ。脚をテーブルの下に入れるのがイヤになるくらい低いし、その姿勢だと窮屈でしんどくてですな、全然リラックス出来ません(笑) 膝頭が出るくらいの丈のスカートをはいた婦女子さんだと、間違いなくパンツが見えますな。きっと、模様までくっきりと見えるはずですから(笑)

まあ、そこまでいいんですよ。
や、それだけでもたいがいですが、そんなことは問題じゃない!っていえるほどに、おそろしいことが待ってましてね。

コーヒーでも紅茶でもジュースでも、注文したものが出てくるのがね、とんでもなく遅いの(笑)
あのね、大げさでもなんでもなくて、ホットコーヒーを注文してから出てくるまで、1時間かかりますから!
だからね、ちょっとお茶でも、ってかんじでは入れない喫茶店なのですよ〜。

なので、今回も、行きたい!ってはしゃぐのはいいけれども、2時間は覚悟しないとダメだからね!そのあとの仕事にしわ寄せが来るからね!って、このクソ忙しいさなかに念押ししてですね、行ったわけです。

店を仕切るのは、ママひとり。
まだ生きてましたか〜(笑)

佐藤美恵さんという方で、戦後直後にお母さんがはじめた店の、美恵さんはその当時からの看板娘で、当時、『夫婦善哉』で有名な織田作之助が木屋町を舞台にした小説を京都新聞に連載していたのだけれども、その作品のなかで、木屋町一のベッピンさんと評された女性です。
でも、んなもん、それも50年以上もむかしのこと。もはや何歳なのかもわからないし、恐ろしくて聞く勇気すらないです(笑) というか、いつ行っても、きっとこれが最後の見納めなのだろうな、と(笑)

当然なのかも知れないですが、かなりの妙齢であるはずの美恵さんの給仕は、恐ろしく遅いです。
まず、動きが遅い。ゼンマイで動いているのではないかと思うほどです(笑)

厨房とホールを行き来するためにカウンターの下の低い通路を通るのだけれども、1日にそこを何往復もし、それを50年も繰り返しているからか、背中はほぼ直角に折れ曲がっていてですね、美恵さんのご尊顔を拝することは、稀です。
注文をとりにくるのも遅いけれども、出来上がるのは、もっと遅くてですね。とにかく、ホットコーヒーを注文して、なにをどうすればあれほどの時間がかかるのかわかんないですけれども、ありつけるまでに平均で1時間はかかるのですよ〜。
水だって、サッと出てきません。思い出したように30分くらいしてから出てくるときもあれば、コーヒーと一緒に出てくるときもあり…(笑)
あ、タンゴ喫茶なので店内にはタンゴが流れているのですが、これがレコードかカセットでして、途中、カウンターを出て、レコードやカセットをリセットしたりするなどの、中断もあります。

が、しーかし、イライラしてはいけません。文句を言ってもいけません。
そういう店なのですよ。この店を訪れるすべての人が、そのことを了承してやってきますから。
だから、ちょいと時間が空いたからお茶でも、という感覚で来てはいけない店なのです。あくまで、優雅にタンゴを聴いて楽しむ、それがメインの店なのですよ〜。

今回、注文してからどれくらいかかるのか、計ってみました(笑)
先客は、オッサンがひとり。
んで、こちらの3人は、全員がホットコーヒー。
席について、2、3分で恵美さんが厨房から出てきて、注文を聞いてくれました。このレスポンスは過去最速で、これは期待が持てるかも!って思ったもんですよ。

恵美さん、スリットの入った黒のロングスカートに白のブラウスのうえに黒のカーディガンを羽織ったシックな装いです。この年代の京都人だと和装が多いのですが、恵美さんは戦後間もなくからのタンゴ喫茶の看板娘ですからね、ハイカラさんなのですよ☆ あ、足下は毛糸の靴下にサンダルでしたが(笑)
黒々としたロングヘアーはキレイにシニヨンにまとめられているのですが、なんせ腰が直角(笑) 顔が真下を向いてますので、そのご尊顔を拝することは叶いません。叶いませんが、真っ赤に引いた紅がチラチラ見えて、艶かしいです☆

さて、注文してから28分が経って、恵美さんが厨房から出てきて、トレイにコーヒーをひとつ載せて、やってきました。
おお!早いっ!と思ったのもつかの間、そのコーヒーは先客のオッサンのものでして、オレたちの歓びはぬか喜びに(笑)

もちろん、恵美さんのコーヒーは1杯だてですから、いっぺんにつくるなんてことはないのですよ〜。いや、つくってほしいもんですけれども。

さて、お水も出てきません。
手持ち無沙汰なので、おもむろに新聞でも。
このお店、だいたい昼の3時にオープンするのですが、なぜか朝刊各種が取り揃っていまして、ちなみに夕刊はありません。。。。

あ、恵美さんが厨房から出てきました。
36分経過。
レコード盤を引っくり返して、また厨房に戻っていきました。

それにしても、なーんでこんなに時間がかかるんでしょうか?(笑)
コーヒー豆を採集するところからやってるとしか思えません。。。。

えーっと、77分経過。
まだ、なんの音沙汰もありません。

90分経過。
恵美さん登場。
トレイに、水が入ったグラスが3つ、載せてます。。。
んで、やっとお水が到着してですね、もうすぐコーヒーが出来ますからね♪と(笑)

99分経過。
おおっ! 恵美さんがトレイにコーヒーを3つ載せて登場☆
えっ? もしかして3杯いっぺんにつくったの? それでもこの時間?

いやいや、コーヒーを注文してから99分ですよ〜。
先客がいたとえはいえ、これはあまりにも時間が…、というレベルの話でもないですが(笑)

澄んだ切れ味の美味しいコーヒーなんですけどね、でも、さすがに疲れました〜。
結局のところ、そういう店なのだと思わなければ、とても行けない店なのですね。
だから、覚悟がいるのですよ(笑)
今日も、昼の3時に入って、店を出たときには外は暗くなってましたから。。。

そもそも、午後3時開店という不思議な開店時間にもかかわらず、店が3時ちょうどに開くことすら毎日ではなく、4時、5時、6時に開店がずれ込むことすら珍しくはないわけで、それを考えると、今日は3時に行って店が開いていたのだから、これはラッキー!だと思うしかないのです。。。

そしていつも、店を出るとき、次来るときまで恵美さんは生きてるのかなあ、と(笑)
なんせ、ゼンマイで動いてますからね☆

はあ、疲れました(笑)


ピアソラのリベルタンゴを渡辺香津美がやってます☆

本日の1枚:
渡辺香津美 /『Libertango』


2007-11-19

金閣へ行く

よくある話、というもののひとつではあるのですが…、
「ここに金閣寺がなければ、どんなに素晴らしいものか」
「どうして?」
「オレが金閣寺を造る」
というものがあります。

大北山の麓。金があれば誰でもなにか大きなものを造ってみたくなる場所ですな。

むかし、ここは地方豪族の中資王の領地でした。これに目をつけたのが西園寺家の創立者、西園寺公経。公経は承久の乱のときに北条氏の味方となり、その功績を買われて太政大臣になった男ですから、政治の力量も相当にあったのでしょう。
政治力もあったけれども、生来の建築好きでもあり、ここに目が向いたらカーッとのぼせ、尾張にある荘園と交換してしまったのでした。
室町時代のことですわ。
スケールはだいぶ下がるけれども、先祖伝来の田舎の土地を売って都会の外れに建て売り住宅を買うサラリーマンのようなものですな。

念願叶って手に入れたこの土地に、公経は結構を極めた寺院兼別荘を造り、西園寺と命名しました。貴族としての自分の家名も、大宮から西園寺に変えてしまったのだから相当なものですが、もっとも、家名は家号(屋号)だと考えれば、どうということはないです。

西園寺の寺境はなかなかに広大なものでして、その北には公経の別荘が建てられ、北山殿と呼ばれるようになりました。
贅を尽くした貴族の邸宅としては藤原道真の法成寺殿が有名だったのですが、公経は、この法成寺殿に張り合うつもりだったのだといわれています。

法成寺が素晴らしいと世間はいうが、北山殿には山の景色というアドバンテージがある。都を離れた眺望のよさに叶うものはない。

と、『増鏡』にあります。まあ『増鏡』は、西園寺家のパンフレットという側面を持っていますから、そういうことが書いてあってもいいのですが、どこまでが本当なのかは、眉唾ですな。教科書に載っているテキストだからといって、簡単に信用しないように(笑)

法王や天皇がやってきて、滞在することもありました。
南朝勢に追われてしばらく近江に逃げていた天皇は、この北山殿に仮住まいしていたとか。

その後、西園寺の隆盛に衰えが見えはじめ、しばし、荒廃します。

3代将軍足利義満がここへ新しい北山殿を再建したのは、応永4年(1397年)。
で、その北山殿の舎利殿として造られたのが、金閣です。
将軍義満のすべては、この金閣寺に代表されるといっても過言ではないですな。

足利幕府を開いた尊氏は隆盛を見る間もなく没したけれども、義満は、いわば、生まれついての将軍であり、富と権勢をほしいままにするという、なんとも羨ましい境遇でね。

ただ、これほどのモノをつくる人物なのだから、野心に底がなく、常人には理解しがたい、破天荒そのものでもありましたな。
明国に対して、天皇を飛び越えて日本国王を名乗ったので、明の皇帝に臣従する礼をとったのはけしからん、ということになっています。しかし、義満にいわせれば、オレは将軍を超えた存在であり、将軍の権威は天皇によって授けられるが、将軍以上の存在であるオレが天皇を無視するのは当然だ、という論理なのですよ。
明の皇帝に臣従したのも、こうしなければ自分の権威を裏打ちするものが得られないからです。
要するに、天皇よりもでっかい存在をバックにつけて、日本国内では一番エラい存在を目指した、と。

明国貿易の利益を一手に収め、国内では守護大名の上に君臨する専制君主となったのが、義満です。
その明国では、黄金がなによりも尊重され、工芸品の価値は、黄金をどれだけ使っているかで決定される風潮でありましたから、義満が君臨する日本国も、黄金の世界に巻き込まれたわけです。
日本はエルドラドということになっていましたから、金閣は、金閣以外ではあり得なかったのですね。

義満以前にも金をふんだんに使った建築物はあります。
中尊寺もまた、古くから黄金郷と呼ばれたところですな。
義満がすごかったのは、金を直接召し上げるのではなく、金を流通させるシステムを構築し、流通経路のすべてから税を徴収したことです。これで、何倍もの富を築くことが出来るようになりました。

総工費は百万貫を超えていたといいますから、現在の価値に直して、どれくらいのものですかね? 昭和62年には総額7億5千万円をかけて漆の塗り、金箔の貼りが行われています。だからそのあたりの金額になるかと思ったら、ところがどっこい、これが大間違い。往時の金閣は、今の何倍もの領地を誇っていましたから。

造営工事を分担させられた大名たちは泣く泣く協力し、その名残は鏡湖池に点在する巨大な細川石・畠山石の名に伝わっています。もっとも、大内義弘はただひとり、工事分担を拒否。
武士なのだから弓矢(戦)で仕えるのみ、と、なかなか威勢のいい啖呵を切ったのですが、この反抗が災いの元となりまして、まもなく滅亡させられてしまいます。
しっかし、自分のいうことを聞かないからといって、一族もろとも滅ぼしてしまうようなトップって、商売人からすれば、あり得ませんけれどもね。このへんも、義満の破天荒っぷりが見てとれますが。

応永8年(1401年)、義満は北山殿に日本国の政庁を置くことを宣言。
すでに7年もまえ、義満は将軍職を息子の家持に譲っていて、将軍の政庁は室町にありましたから、室町と北山の2元政治になってしまいはせぬかとも危惧しないわけではないのですが、室町との競合など、起こるはずもありませんでした。それほど、義満の権勢は凄みがあったのですね。

でもですな、義満が亡くなると、広壮華麗な北山殿を維持する力は、幕府にはありませんでした。
財政もさることながら、義満のような桁外れのスケールを持った政治家など、何代もおなじ家から続いて出るわけがないのですから。

金閣寺は正しくは北山鹿苑寺といいますが、その鹿苑寺というのは、義満の菩提を弔うために金閣を中心にして建てられた寺院全体を指します。勘違いしている人も多いですけれども、金閣が先で、鹿苑寺が後なのですね。

北山殿の金閣以外の建物は解体されて、南禅寺や建仁寺などの禅宗寺院に移築されました。
したがって、義満に直接のかかわりのあるのは金閣だけになってしまったのだけれども、それでも庶民からすれば、キンキラキンの建物は人気がありますから、江戸時代には早くも料金を納める者には拝観を許すようになっていました。
京都と大阪に旅した江戸時代後期の物語作家、滝沢馬琴が、
「1人から10人までは、銀2匁を寺僧に渡せば庭の門を開けて、入れてくれる」
と、書いています。他の寺院については、なんとも書かれていないのにね。

ま、その金閣も、1950年にはひとりの僧によって放火され、炎上してしまいます。
このあたりのことは、三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』や『金閣炎上』に詳しいですな。


ということをですな、このクソ忙しいさなかに日本にやって来たブラジル人のオッサンを接待せねばならぬことになりまして、金閣に案内して説明せねばならんかったのですよ。
ブラジルの公用語はポルトガル語なのですが、ポルトガル語なんて一切喋らんからな、スペイン語しか喋らないから、それでもちゃんと理解しろよ!と、釘だけは刺してですな、ややこしい説明をしてましたですよ(笑)
ま、ポルトガル語とスペイン語なんて、大阪弁と標準語程度の違いしかないね。

以下、今年の金閣をアルバムから抜粋。
ここの紅葉は早くから赤く染まる種類なので、なかなかいい感じです。でも、人が多すぎて、やっぱ、この時期はどうにもなりませんな(笑)

奈良の春日大社を見たときにも思ったし、秀吉がつくらせた黄金の茶室を見たときも思ったのだけれども、黄金と漆の赤というのは、並みの神経では調和させることなど出来ませんが、力のある人間が圧倒的なスケールでこれをやると、美の極致とでも言いたくなるほどの艶やかなものが出来上がります。

なので、紅葉の時期の金閣は、一見の価値があります。