2007-11-26

圓通寺/消えゆくもの

ここ数年、とあるお客さんの会社の社長さんの奥さんが所属する団体の京都観光のナビゲーターを仰せつかっておりまして、春と秋に、京都のお寺さんを案内&記念撮影係を強制的にさせられておりまして…。。。

今日、またまた京都ですよ。
3連休でどピーカン&気温もよろしくってことで、こんなときの京都なんて、どこ行ってもどうにもならんですけれどもね。
春先も、銀閣寺と哲学の道と南禅寺と連れまわされたし、ほんま、仕事がたまってるのでカンベンしてほしいんですが…。。。。(笑)

えーっとね、バスをチャーターして、15人ばかり引き連れて、お寺さんを2ヶ所、まわってきました。
1軒目は、圓通寺。
2軒目は、金閣。
金閣って…、1週間前にブラジル人のオッサン連れて、行ったところなんですけど(笑)

まあ、でも、圓通寺は2年まえに行ったきりだし、これはこれでよかったんですけれどもね。

そんなわけで、今日は圓通寺を。
しっかし、京都中の道が大渋滞で、ほんま、バスが動いてくれませんでしたわ〜。


えーっと、圓通寺はなかなかシブいお寺さんでして、京都市内でも平野部の一番北にあるせいもあって、それほど人が訪れないお寺さんなのですね。

でも、清水寺、知恩院、南禅寺、金閣寺、銀閣寺、東寺、三十三間堂、天龍寺、大原三千院、鞍馬寺、東福寺、平等院鳳凰堂、二条城、御所…、ここらの大駒を制覇したら、その次に行ってみたくなるランクのお寺さんです。
その次のランクといえば、詩仙堂、高台寺、高山寺、神護寺、広隆寺、仁和寺、相国寺、大徳寺、建仁寺、泉涌寺、善峯寺、祇王寺、桂離宮、修学院離宮あたりになるんでしょうが、そのなかでも一番アクセスが悪いせいもあって、それほど混んでいるお寺さんではありません。平日の昼間なんかだと、きっと独り占め出来るお寺さんです☆

とにかくね、市バスであれ電車であれ、なにを使っても、かなり歩きます。
山を越えたり、田んぼ道を延々と歩いたりしなければならないのですが、その道中の景色が、のんびりしていて、いいかんじです。
まあ、今回はバスをチャーターしてますから、お寺さんのまえの駐車場に横付けですが、これがね、もったいないの。でも、オバァ連中ばっかりだから、仕方ないですね。年寄りと金持ちは、タクシーで来ますから。

ここはですね、なにもないお寺さんです。
見るべき仏像も、見るべきお堂も、ありません。

でもね、庭が素晴らしい!
そのひとことに、尽きます。

借景庭園でして、樹々のうしろにそびえ立つ比叡山がね、見事です。
生け垣と樹々の葉で空間の上下を区切り、そこに比叡の山並みがすっぽり収まるようにつくられています。
後水尾天皇が作庭したのですが、比叡山がもっとも美しく見える場所を20年かけて探したといいますから、これは金持ち道楽の極みですね。
それでいて、禅寺ですから、金持ち道楽の厭味が、まるでありません。
ゴダールの映画ではないけれども、金持ちでないと出来ない表現って、やっぱりありますね。

この時期は紅葉も美しく、ほーんとに、ずっと見とれてました。
ただ、オレのしょぼいデジカメで撮影すると、せっかくの比叡山が、キレイに映ってくれないのですね。。。
これ、携帯からだと、比叡山が見えないかも知れません。。


さてここは、長らく、撮影禁止のお寺さんでした。
黙って撮影すれば怒られるし、そもそも、入室するときにはカメラを預けなければならないほどでした。
そもそも景色は目に焼きつけるもので写真に撮るものではないからです。
オレは、その考えにすごく賛成で、今でこそ撮影してますが、それは京都の神社仏閣本をつくると決めたからで、そんなことを考える以前にまわった大半のお寺さんでは、1枚も写真を撮ってません。
撮るとね、忘れちゃうんですよ。
記憶装置、記録装置に頼ると、脳が働きませんね。これ、困ったもんですけれども。

今、このお寺さんでは、撮影することが許されています。
じつは、この庭の先で大規模開発の許可が下りて、これからビルがバンバン建つ予定になってしまっているのですね。
住職さんは反対運動を続けていますが、景観を厳しく保存している京都市であっても、この決定は覆らないそうです。
なので、住職さんは、出来るだけこの景色を記録してもらおうと、今、撮影を許可しています。

消えていく景色なのですね。
ですから、目に焼き付けておきたいし、もっというならば、写真ではなく、誰かに、絵を描いてもらいたいくらいです。
この美しい風景よいつまでもそのままでいてくれ!と、センチメンタルな感情を込めて描くもよし、所行は無常で、どんなものでも移ろいゆくという儚さを込めて描かれるものでもいいです。
そうした感情のこもったこの風景の絵を、ぜひ、見てみたいとオレは思っています。

住職さんが厳しいせいもあって、この庭で、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしているオバァは、まずいません。
しゃべってると、怒られますから。
おかげで、オレも、今回はラクなお守りとなりました(笑)


そうそう、帰りしな、近くの農家のオバァと話し込んでいたら、掘りたての金時人参をいただいてしまいましたですよ☆
豚汁や粕汁に入れる以外に、なにに使えばいいんでしょうか?
誰か、教えてくださいませ。


圓通寺の近くにある深泥(みどろ)池。
水面に映った景色がきれいです☆



圓通寺の山門です。



比叡山を借景とした庭園。見えますかね? 樹々の後ろにうっすらと青く聳えるのが比叡山です。














庭の反対側は、竹林が広がっています。






こんなに金時人参をいただいてしまいました(笑)

2007-11-22

99分





この店のことはずいぶんまえに日記で書いたのですが、今日、久しぶりに行ったので、もっかい。

京都のど真ん中に、とんでもないカフェ、基、喫茶店がありましてですね。
今日、3人で京都に仕事に出かけた折り、その店の話をしていたら、行ってみたい!ってことになって、久しぶりに立ち寄ったのでした。
オレ自身、2年ぶりくらいかも知れません。
なんせね、行くなら行くで、ちょっとした覚悟がいるのですよ。

お店の名前は、『クンパルシータ』。
タンゴの名曲から店名をいただいた、タンゴ喫茶(笑)

あのね、日本中どこを探したところで、こんな店はないですから。

風俗街のトバグチにあるんですが、もっとも店の創業が終戦直後の昭和21年なので、風俗店があとから乗り込んできました。それはいいんですね。問題は、風俗店でもないのに、風俗店以上に妖しい雰囲気を醸し出していることのほうで。
まず、地下でもないのに、カフェのくせに、窓がいっこもありません。
港町の場末のバーのような扉を押してなかに入ると、ベルベットの赤で統一されたイスが並んでいて、店内はタングステンでも使ってるのか?と言いたくなるほど、オレンジに輝く照度の低い照明で。で、テーブルとテーブルを仕切る柵は、先が尖っていて、妖しく黒光りしていて、まあ、ラブホのSMルームのような装いですよ(笑)

むかーしの喫茶店って、イスとテーブルがかなり低かったりするんですが、ここも例に漏れずですな、低いのですよ。脚をテーブルの下に入れるのがイヤになるくらい低いし、その姿勢だと窮屈でしんどくてですな、全然リラックス出来ません(笑) 膝頭が出るくらいの丈のスカートをはいた婦女子さんだと、間違いなくパンツが見えますな。きっと、模様までくっきりと見えるはずですから(笑)

まあ、そこまでいいんですよ。
や、それだけでもたいがいですが、そんなことは問題じゃない!っていえるほどに、おそろしいことが待ってましてね。

コーヒーでも紅茶でもジュースでも、注文したものが出てくるのがね、とんでもなく遅いの(笑)
あのね、大げさでもなんでもなくて、ホットコーヒーを注文してから出てくるまで、1時間かかりますから!
だからね、ちょっとお茶でも、ってかんじでは入れない喫茶店なのですよ〜。

なので、今回も、行きたい!ってはしゃぐのはいいけれども、2時間は覚悟しないとダメだからね!そのあとの仕事にしわ寄せが来るからね!って、このクソ忙しいさなかに念押ししてですね、行ったわけです。

店を仕切るのは、ママひとり。
まだ生きてましたか〜(笑)

佐藤美恵さんという方で、戦後直後にお母さんがはじめた店の、美恵さんはその当時からの看板娘で、当時、『夫婦善哉』で有名な織田作之助が木屋町を舞台にした小説を京都新聞に連載していたのだけれども、その作品のなかで、木屋町一のベッピンさんと評された女性です。
でも、んなもん、それも50年以上もむかしのこと。もはや何歳なのかもわからないし、恐ろしくて聞く勇気すらないです(笑) というか、いつ行っても、きっとこれが最後の見納めなのだろうな、と(笑)

当然なのかも知れないですが、かなりの妙齢であるはずの美恵さんの給仕は、恐ろしく遅いです。
まず、動きが遅い。ゼンマイで動いているのではないかと思うほどです(笑)

厨房とホールを行き来するためにカウンターの下の低い通路を通るのだけれども、1日にそこを何往復もし、それを50年も繰り返しているからか、背中はほぼ直角に折れ曲がっていてですね、美恵さんのご尊顔を拝することは、稀です。
注文をとりにくるのも遅いけれども、出来上がるのは、もっと遅くてですね。とにかく、ホットコーヒーを注文して、なにをどうすればあれほどの時間がかかるのかわかんないですけれども、ありつけるまでに平均で1時間はかかるのですよ〜。
水だって、サッと出てきません。思い出したように30分くらいしてから出てくるときもあれば、コーヒーと一緒に出てくるときもあり…(笑)
あ、タンゴ喫茶なので店内にはタンゴが流れているのですが、これがレコードかカセットでして、途中、カウンターを出て、レコードやカセットをリセットしたりするなどの、中断もあります。

が、しーかし、イライラしてはいけません。文句を言ってもいけません。
そういう店なのですよ。この店を訪れるすべての人が、そのことを了承してやってきますから。
だから、ちょいと時間が空いたからお茶でも、という感覚で来てはいけない店なのです。あくまで、優雅にタンゴを聴いて楽しむ、それがメインの店なのですよ〜。

今回、注文してからどれくらいかかるのか、計ってみました(笑)
先客は、オッサンがひとり。
んで、こちらの3人は、全員がホットコーヒー。
席について、2、3分で恵美さんが厨房から出てきて、注文を聞いてくれました。このレスポンスは過去最速で、これは期待が持てるかも!って思ったもんですよ。

恵美さん、スリットの入った黒のロングスカートに白のブラウスのうえに黒のカーディガンを羽織ったシックな装いです。この年代の京都人だと和装が多いのですが、恵美さんは戦後間もなくからのタンゴ喫茶の看板娘ですからね、ハイカラさんなのですよ☆ あ、足下は毛糸の靴下にサンダルでしたが(笑)
黒々としたロングヘアーはキレイにシニヨンにまとめられているのですが、なんせ腰が直角(笑) 顔が真下を向いてますので、そのご尊顔を拝することは叶いません。叶いませんが、真っ赤に引いた紅がチラチラ見えて、艶かしいです☆

さて、注文してから28分が経って、恵美さんが厨房から出てきて、トレイにコーヒーをひとつ載せて、やってきました。
おお!早いっ!と思ったのもつかの間、そのコーヒーは先客のオッサンのものでして、オレたちの歓びはぬか喜びに(笑)

もちろん、恵美さんのコーヒーは1杯だてですから、いっぺんにつくるなんてことはないのですよ〜。いや、つくってほしいもんですけれども。

さて、お水も出てきません。
手持ち無沙汰なので、おもむろに新聞でも。
このお店、だいたい昼の3時にオープンするのですが、なぜか朝刊各種が取り揃っていまして、ちなみに夕刊はありません。。。。

あ、恵美さんが厨房から出てきました。
36分経過。
レコード盤を引っくり返して、また厨房に戻っていきました。

それにしても、なーんでこんなに時間がかかるんでしょうか?(笑)
コーヒー豆を採集するところからやってるとしか思えません。。。。

えーっと、77分経過。
まだ、なんの音沙汰もありません。

90分経過。
恵美さん登場。
トレイに、水が入ったグラスが3つ、載せてます。。。
んで、やっとお水が到着してですね、もうすぐコーヒーが出来ますからね♪と(笑)

99分経過。
おおっ! 恵美さんがトレイにコーヒーを3つ載せて登場☆
えっ? もしかして3杯いっぺんにつくったの? それでもこの時間?

いやいや、コーヒーを注文してから99分ですよ〜。
先客がいたとえはいえ、これはあまりにも時間が…、というレベルの話でもないですが(笑)

澄んだ切れ味の美味しいコーヒーなんですけどね、でも、さすがに疲れました〜。
結局のところ、そういう店なのだと思わなければ、とても行けない店なのですね。
だから、覚悟がいるのですよ(笑)
今日も、昼の3時に入って、店を出たときには外は暗くなってましたから。。。

そもそも、午後3時開店という不思議な開店時間にもかかわらず、店が3時ちょうどに開くことすら毎日ではなく、4時、5時、6時に開店がずれ込むことすら珍しくはないわけで、それを考えると、今日は3時に行って店が開いていたのだから、これはラッキー!だと思うしかないのです。。。

そしていつも、店を出るとき、次来るときまで恵美さんは生きてるのかなあ、と(笑)
なんせ、ゼンマイで動いてますからね☆

はあ、疲れました(笑)


ピアソラのリベルタンゴを渡辺香津美がやってます☆

本日の1枚:
渡辺香津美 /『Libertango』


2007-11-19

金閣へ行く

よくある話、というもののひとつではあるのですが…、
「ここに金閣寺がなければ、どんなに素晴らしいものか」
「どうして?」
「オレが金閣寺を造る」
というものがあります。

大北山の麓。金があれば誰でもなにか大きなものを造ってみたくなる場所ですな。

むかし、ここは地方豪族の中資王の領地でした。これに目をつけたのが西園寺家の創立者、西園寺公経。公経は承久の乱のときに北条氏の味方となり、その功績を買われて太政大臣になった男ですから、政治の力量も相当にあったのでしょう。
政治力もあったけれども、生来の建築好きでもあり、ここに目が向いたらカーッとのぼせ、尾張にある荘園と交換してしまったのでした。
室町時代のことですわ。
スケールはだいぶ下がるけれども、先祖伝来の田舎の土地を売って都会の外れに建て売り住宅を買うサラリーマンのようなものですな。

念願叶って手に入れたこの土地に、公経は結構を極めた寺院兼別荘を造り、西園寺と命名しました。貴族としての自分の家名も、大宮から西園寺に変えてしまったのだから相当なものですが、もっとも、家名は家号(屋号)だと考えれば、どうということはないです。

西園寺の寺境はなかなかに広大なものでして、その北には公経の別荘が建てられ、北山殿と呼ばれるようになりました。
贅を尽くした貴族の邸宅としては藤原道真の法成寺殿が有名だったのですが、公経は、この法成寺殿に張り合うつもりだったのだといわれています。

法成寺が素晴らしいと世間はいうが、北山殿には山の景色というアドバンテージがある。都を離れた眺望のよさに叶うものはない。

と、『増鏡』にあります。まあ『増鏡』は、西園寺家のパンフレットという側面を持っていますから、そういうことが書いてあってもいいのですが、どこまでが本当なのかは、眉唾ですな。教科書に載っているテキストだからといって、簡単に信用しないように(笑)

法王や天皇がやってきて、滞在することもありました。
南朝勢に追われてしばらく近江に逃げていた天皇は、この北山殿に仮住まいしていたとか。

その後、西園寺の隆盛に衰えが見えはじめ、しばし、荒廃します。

3代将軍足利義満がここへ新しい北山殿を再建したのは、応永4年(1397年)。
で、その北山殿の舎利殿として造られたのが、金閣です。
将軍義満のすべては、この金閣寺に代表されるといっても過言ではないですな。

足利幕府を開いた尊氏は隆盛を見る間もなく没したけれども、義満は、いわば、生まれついての将軍であり、富と権勢をほしいままにするという、なんとも羨ましい境遇でね。

ただ、これほどのモノをつくる人物なのだから、野心に底がなく、常人には理解しがたい、破天荒そのものでもありましたな。
明国に対して、天皇を飛び越えて日本国王を名乗ったので、明の皇帝に臣従する礼をとったのはけしからん、ということになっています。しかし、義満にいわせれば、オレは将軍を超えた存在であり、将軍の権威は天皇によって授けられるが、将軍以上の存在であるオレが天皇を無視するのは当然だ、という論理なのですよ。
明の皇帝に臣従したのも、こうしなければ自分の権威を裏打ちするものが得られないからです。
要するに、天皇よりもでっかい存在をバックにつけて、日本国内では一番エラい存在を目指した、と。

明国貿易の利益を一手に収め、国内では守護大名の上に君臨する専制君主となったのが、義満です。
その明国では、黄金がなによりも尊重され、工芸品の価値は、黄金をどれだけ使っているかで決定される風潮でありましたから、義満が君臨する日本国も、黄金の世界に巻き込まれたわけです。
日本はエルドラドということになっていましたから、金閣は、金閣以外ではあり得なかったのですね。

義満以前にも金をふんだんに使った建築物はあります。
中尊寺もまた、古くから黄金郷と呼ばれたところですな。
義満がすごかったのは、金を直接召し上げるのではなく、金を流通させるシステムを構築し、流通経路のすべてから税を徴収したことです。これで、何倍もの富を築くことが出来るようになりました。

総工費は百万貫を超えていたといいますから、現在の価値に直して、どれくらいのものですかね? 昭和62年には総額7億5千万円をかけて漆の塗り、金箔の貼りが行われています。だからそのあたりの金額になるかと思ったら、ところがどっこい、これが大間違い。往時の金閣は、今の何倍もの領地を誇っていましたから。

造営工事を分担させられた大名たちは泣く泣く協力し、その名残は鏡湖池に点在する巨大な細川石・畠山石の名に伝わっています。もっとも、大内義弘はただひとり、工事分担を拒否。
武士なのだから弓矢(戦)で仕えるのみ、と、なかなか威勢のいい啖呵を切ったのですが、この反抗が災いの元となりまして、まもなく滅亡させられてしまいます。
しっかし、自分のいうことを聞かないからといって、一族もろとも滅ぼしてしまうようなトップって、商売人からすれば、あり得ませんけれどもね。このへんも、義満の破天荒っぷりが見てとれますが。

応永8年(1401年)、義満は北山殿に日本国の政庁を置くことを宣言。
すでに7年もまえ、義満は将軍職を息子の家持に譲っていて、将軍の政庁は室町にありましたから、室町と北山の2元政治になってしまいはせぬかとも危惧しないわけではないのですが、室町との競合など、起こるはずもありませんでした。それほど、義満の権勢は凄みがあったのですね。

でもですな、義満が亡くなると、広壮華麗な北山殿を維持する力は、幕府にはありませんでした。
財政もさることながら、義満のような桁外れのスケールを持った政治家など、何代もおなじ家から続いて出るわけがないのですから。

金閣寺は正しくは北山鹿苑寺といいますが、その鹿苑寺というのは、義満の菩提を弔うために金閣を中心にして建てられた寺院全体を指します。勘違いしている人も多いですけれども、金閣が先で、鹿苑寺が後なのですね。

北山殿の金閣以外の建物は解体されて、南禅寺や建仁寺などの禅宗寺院に移築されました。
したがって、義満に直接のかかわりのあるのは金閣だけになってしまったのだけれども、それでも庶民からすれば、キンキラキンの建物は人気がありますから、江戸時代には早くも料金を納める者には拝観を許すようになっていました。
京都と大阪に旅した江戸時代後期の物語作家、滝沢馬琴が、
「1人から10人までは、銀2匁を寺僧に渡せば庭の門を開けて、入れてくれる」
と、書いています。他の寺院については、なんとも書かれていないのにね。

ま、その金閣も、1950年にはひとりの僧によって放火され、炎上してしまいます。
このあたりのことは、三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』や『金閣炎上』に詳しいですな。


ということをですな、このクソ忙しいさなかに日本にやって来たブラジル人のオッサンを接待せねばならぬことになりまして、金閣に案内して説明せねばならんかったのですよ。
ブラジルの公用語はポルトガル語なのですが、ポルトガル語なんて一切喋らんからな、スペイン語しか喋らないから、それでもちゃんと理解しろよ!と、釘だけは刺してですな、ややこしい説明をしてましたですよ(笑)
ま、ポルトガル語とスペイン語なんて、大阪弁と標準語程度の違いしかないね。

以下、今年の金閣をアルバムから抜粋。
ここの紅葉は早くから赤く染まる種類なので、なかなかいい感じです。でも、人が多すぎて、やっぱ、この時期はどうにもなりませんな(笑)

奈良の春日大社を見たときにも思ったし、秀吉がつくらせた黄金の茶室を見たときも思ったのだけれども、黄金と漆の赤というのは、並みの神経では調和させることなど出来ませんが、力のある人間が圧倒的なスケールでこれをやると、美の極致とでも言いたくなるほどの艶やかなものが出来上がります。

なので、紅葉の時期の金閣は、一見の価値があります。
































2007-11-08

セレブなお庭

今、相方さんのおやすみは火曜日が多いので、毎週火曜日にどっか行くことが多いのですが、ここのところ、火曜日のみ、ピンポイントで雨です(笑)
さすが、雨女、というか嵐を呼ぶ女☆ 存分に本領を発揮してはりますわ~。

んなわけで、こないだの火曜日は、世界遺産でもある醍醐のお寺さんを巡ろうと考えていたのですが、山を延々と歩かないとダメだし、雨んなかをそんなところ歩くのはイヤだし…、ってことで、京都市中の、渉成園ってところに行ったのでした。上手い具合に雨はやんでくれましたが(笑)

真宗大谷派の本山・東本願寺の飛び地でして、ここにはお寺さんはありません。純然たる庭園ですわ。オレ自身は、2度目の来訪。

真宗大谷派とは、親鸞が開いた浄土真宗がルーツになっているのですが、なかなかやんちゃな宗派でして、本願寺はむかしっからよく揉めるのですよ。戦国時代に織田信長とケンカして、そのケンカを収める方法を巡って教団が対立してですな、西と東にわかれちゃいました。
真宗大谷派は東本願寺ですね。
真宗は日本で一番でっかい宗派ですから、信徒も多く、勢力もあります。

仏教は、そもそもが、個人が解脱して悟りの世界を開くためのメカニズムを体得するための宗教でね。
でもそのなかには慈悲の心があって、そいつを拡大解釈したのが、いわゆる大乗仏教です。それに対して個人が解脱するためのメカニズムを教えとする元来の仏教は、便宜上、小乗仏教と呼ばれます。
天台宗だとか真言宗だとかの、平安末期に空海や最澄が日本に持ち込んだ禅宗は小乗仏教ですが、飛鳥時代に日本に最初に輸入され、以後、現在に至るまで連綿と盛力を保っているのは、大乗仏教です。
真宗(浄土真宗)は、その、大乗仏教の、日本における最大勢力ですね。

んで、人々の救済を目的とする大乗仏教は、だからこそ、俗世に入り込んでいき、教えを説きますわな。橋を架けたりなんていう土木工事もやれば、学校をつくって教育もやります。政治にも首を突っ込んでいきますね。
ですから、現在、仏教系で政党を持ったり学校を経営しているところは、新興宗教系を除くと、すべて、大乗仏教系の真宗だと考えて間違いありません。
あと、お葬式ですね。仏教はお葬式という死者を弔うセレモニーとは無縁の宗教だったのですが、大乗仏教系がこのセレモニーを発明しました。そこに日本独自の檀家制度が整備されて、お寺さんが経営というか自立出来るシステムが出来上がってます。

そういう、すべての分野で最大勢力を保っているのが、真宗大谷派の東本願寺、通称、お東さんです。
だから、この宗派は、おカネを持ってるんですよね、今もむかしも。信徒をたーくさん抱えてますからね。
お東さんも、めちゃくちゃでっかいですよ。

そのお東さんが持っているのが、渉成園です。
とにかく、でっかいです☆ 普通に歩いて1周するのに1時間は優にかかるような広さです。
なんか、東京ドームとかがまるまる1個分は入りそうな、庭。
御所と二条城を除いて、京都の市中にこれだけでっかい空間があること自体、驚きですわ。

維持費だけでも大変だと思うのですが、ここは、昨年末までは無料で見学出来ました。
それでもやっていけるだけのカネを持っているのが真宗大谷派だし、全国から信徒が見学に来て、寄付をたくさんしていきますからね。
でも、どうやら財政的に厳しくなってきたみたいで、今年から500円の入園料がとられることになったんですが、500円払うと、普通のお寺さんの拝観では考えられないような豪華なパンフがもれなくついてきます。

この庭園の成り立ちですが、パンフから抜き出すとですな…、

この地は、もともと平安時代初期、嵯峨天皇の皇子左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池(という人工池があったらしい)の遺蹟です、と。
その後、時代は江戸に下って、徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在の地が真宗大谷派に寄進され、さらに、第13代・宣如上人(真宗大谷派のトップですね)によって、石川丈山がここに庭園を作庭した、と。

石川丈山といえば、大阪夏の陣で一番乗りで大将を討ち取った猛将ですが、その功績がかえって周囲の反発を招いて、武士を引退、仏門に入って、今では京都の人気スポットである詩仙堂を建てた人です。
粋人で、歌も詠めば絵も描く作庭もする、と、晩年はマルチ・アーティストとしてご活躍。一休さんが晩年を過ごした一休寺の庭も、後に石川丈山が作庭してはります。

渉成園とはそういう人がつくったそういう庭なのですが、といって、オレは、真宗の教義については詳しくないので、庭のそれぞれ施された意匠の意味がよくわからんのですね。
池の周りをまわるので、池泉回遊式の庭園だということはわかるし、その庭園が浄土(天国)を表現しているのだということもわかるのですが、池のかたちの意味だとか石組みが表現しているものがなんなのかとか、さっぱりわかりません(笑)

眺望台とおぼしき、釜飯を想起させる変な建物があります。
池を見下ろす小山のてっぺんには茶室があります。禅寺でもないのになんで茶室があるのかといえば、千利休と当時のトップが仲よしだったからで、政治の産物ですな(笑)
池をしたがえた建物がいくつもありまして、ここでメシ食ったり昼寝したりしたら気持ちいいだろうな、と。入れませんでしたけれども。
梅、椿、桜、睡蓮、ツツジ、菖蒲、カラタチ、萩、クチナシ、紫式部、銀杏、楠なんかがわんさと植えられているのですが、ま、この時期咲いているものは知れてます。

なので、キレイなあ!すごいなあ!でっかいなあ!くらいの感想しかないのですが(笑)
まあ、相方さんと2人で散策して、雨にもやられず、ゆっくりしておりました~。
ザ・日本庭園☆ってかんじの庭。
オレが普段観にいくのは、お寺さんのお庭ですから、仏教観がそこには表現されているのですが、ここのお庭は、そういうことではなくて、純粋にきれいな景色を楽しむためのお庭のようです。
なんとなく、セレブっぽい香りのする庭ですわ。なんとなく、ですけど(笑)
市川ひろみとかが和服を着て歩いていそうなかんじです~。