雪月花、という言葉がありますな。
万葉集の大伴家持の和歌に出てくるし、枕草子にも村上天皇の一節に挿話されていたように思います。
季節を代表する雅景の最初に、雪が置かれています。ゆき、という発音の清らかさも、その白い結晶にふさわしい。古人の美感覚が、美のもっとも高い存在を清浄としたことが、雪への尊敬になったのではないだろうか、と、思うのです。
美しさは、さまざまにあります。
あでやかな、はなやかな、うるわしい魅力から、あやしい妖艶、魔性の美まで。それこそ、かぎりなく。
そんななかで、浄といえば、雪です。
京都の冬は、どことも違う美しさがある。少なくとも、大阪の冬とはまるで違う。よく冷え込む盆地のせいでもあるだろうけれども、ふと、しんしん、しんしんとあたりの深く静まる気配に外に眼を向けると、雪が降っていることが、よくあります。
京盆地の気象は、ほんの少し場所が異なるだけで、雪の模様が違います。北限はほとんど北陸なみの豪雪となり、そのとき南限には雪が降らなかったり、雪みぞれだったりします。
ずいぶんとまえに、大原三千院の瑠璃光庭の雪を見にいったことがあります。裏の音無滝を聴きに、また大原の里を彷徨いに足を運んだのだけれど、折りからむっくりと積もった雪に、薬師如来の浄土を表現する宸殿前の庭の、雪保ちの杉の大木が、はっとするような美しさで根をおろしていました。
ここは、懺悔の懺法道場です。
余分な雑念は振り捨てて、自分の裡に渦巻く諸悪を自浄する積極的な懺悔、懺法。
そう出来れば、どんなにか清々しかろうと夢想します。自分の悪から離れることが出来たら、どんなにか、自由は輝くのだろうかと思うのだけれども…、
けれど、なかなか、そうはまいりませぬ。
せっかくの自由が、みっしりと諸悪に満たされて、自分ばかりか他の存在を苦しめているのが実態ですな。そして、やがては逝く。お迎えの阿弥陀三尊が柔らかく座っておいでの往生極楽院に、ひっそりとこちらも座って、雪灯りの阿弥陀を見つめていたのでした。
オレは、不自由さを抱えながら、ジタバタと格闘しているほうがいいわ、と(笑)
京は遠近を美しく、借景の知恵に活かされてます。とくに、北山、東山、西山を背景として造られた庭にとって、雪の降り積もった山の稜線は、雪の醍醐味とでも言いたいものです。
山はむかし、濃い自然の霊気を放つ神秘をたたえた聖地だったはずですが、ところがどうです。互いの視界を大切にしあってきた借景の約束は、現代の利益追求の景観変化で大きく破壊されてきました。見たくない風景が、京のあちこちに進んで、さて、どうなるのか…。
雪は、すっぽりと荒れた山をも町をも包み、雪の日に名庭を訪れた人々の心を和ませます。木立も、石も、土も雪に覆われて、池の水面が半ば凍っている。そんな寂光院のさびしさは、他では得られません。
大原よりさらに北に小高い、古知谷の阿弥陀寺へは、まだ行ったことがありません。
農民自身の発見した修行の弾誓上人を開基として、村人集って一寺を建立したという阿弥陀寺には、石窟が多く、行場としていたようです。行とは寒も通してのことだろうから、その厳しい様子が偲ばれます。
この冬、大原の阿弥陀寺に行ってみようと思っています。
さらにその先、これ以上はないとまで言われた、渡岸寺(向源寺)の十一面観音菩薩立像とのご対面を果たしたいと、考えています。
んで、さらに、相方さんがもうすぐお別れする職場、ルッカのおばちゃんに、月心寺の精進料理を食べにいこうと、誘われたのでした。
ちなみに、雪深い京都奥深いの景色を音楽にすると、こうなります。
ASA-chang & 巡礼 / 花
2006-11-29
この冬、大原の奥を狙ってます
ラベル: 大原 投稿者 info@luis.jp
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